□ 松ヶ岡開墾記念館
 □ 農具館
 □ 米作り用具収蔵庫


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 ◇ お知らせ


松ヶ岡開墾記念館〒997-0152
山形県鶴岡市羽黒町松ヶ岡29
☎0235-62-3985
※冬期(12月〜2月)
 致道博物館 0235-22-1199


◆ 営業時間:9:30~16:00
◆ 休業日:月曜日(9月まで)
    (祝日は開館)
※冬期機関(12/1〜3/8休業)

【交通】
  鶴岡駅より車で20分
  駐車場: 有り

【料金】
  一般  450円
  学生  350円
  小中生 150円

 団体(20名以上)
  一般  350円
  学生  250円
  小中生 100円




  □ 松ヶ岡本陣
  □ 新徴組屋敷
  □ 周辺施設







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 















 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

松ヶ岡開墾記念館  一番蚕室 創建:明治8年(1875)

明治維新以降、武士たちが刀を鍬に持ち替え、農地を開拓していった歴史を伝える施設です。
明治8年創建の旧蚕室を記念館として公開しています。




 1875(明治8)年創建の1番蚕室は現存する5棟のうちの1棟 です。他の蚕室と同様、棟梁は当時の名匠高橋兼吉(鶴岡)ら2名で、養蚕業の先進地上州島村(現群馬県佐波郡境町)田島家の蚕室を模し、桁間はその倍にして建造したといわれています。桁間21間(37.8m)、梁間5間(9m)で2階建ての上に通風換気のために,さらに越屋根をとりつけ、屋根には明治8年に取り壊された鶴岡城の瓦が使われています。
▽ 資料:養蚕方荒まし





国指定史跡 松ヶ岡開墾場の沿革松ヶ岡開墾場の沿革

 当時の庄内藩は、戊辰戦争後多くの困難に遭遇したが、なかでも最大の問題は、禄をうしなった旧藩士と江戸の治安を守るため幕府から預けられた浪士隊の生活をどう立て直すかということであった。

 この時、元の中老菅実秀らは、農地の開発による授産を計画し、明治5年(1872)に鶴岡の東を流れる赤川の河川敷地で開墾を試みた後、3千人の藩士を29組に編成して月山山麓地帯の開拓に着手した。
 はじめに後田山に鍬を入れ、掘建て小屋を建て井戸を掘り、大木を伐採して翌明治6年(1873)までに311ヘクタール拓くと、明治7年(1874)までには全体の面積に桑と茶を植え付けた。その後、明治10年(1877)までに蚕室10棟の建設を終えて、蚕種の掃きたて飼育と製茶を開始するまでになった。
 この間、明治5年(1872)には藩主の仮殿を移築して事務所にあて、本陣と呼んだ。この本陣前の経塚山という小丘上に、旧藩主酒井忠発揮毫の「松ヶ岡」という木札を掲げたのが、松ヶ岡という地名の発祥となった。

 同明治6年(1873)には、養蚕の先進地に視察員を派遣して、明治7年(1874)には養蚕技術習得のために群馬県に17名を送った。
 翌明治8年(1875)には、江戸藩邸にあった稲荷神社を経塚丘に移築した。(明治8年9月、東京の藩邸に鎮座の稲荷神社を開墾地の経塚丘に遷し、松ヶ岡蚕業稲荷神社として祭祀した。昭和39年5月蚕業稲荷神社の茅葺きの社殿を酒井家へ呈上し、代わりに酒井家の霊廟(粛清廟)を移築し社殿とし、4月30日に落成、この春祭を兼ねて遷座祭を執行した。)

 この頃になると、鶴岡から松ヶ岡の組小屋や蚕室に移住することを希望者に許可した。こうして開発が進むにつれ、鶴岡、松嶺、その他に、製糸、絹織物などの関連事業を興す一方、水田を拓き、庄内柿、洋梨などの植栽もすすめられるようになった。
 昭和23年(1948)の第二次農地解放に際し、事業開拓以来の伝統と実績を認めた政府は、開墾地を分散せずに、開墾地内の者の共有にするという特例を承認した。
このような経過を経て、ここに松ヶ岡農業協同組合が設立された。

 松ヶ岡開墾場は、明治新政下における大きな社会問題であった士族授産事業の、数少ない成功例であるとともに、開墾当初の趣旨目的、実践の多くの部分が今も守られている貴重な事例である。
 因みに明治14年(1881)の東北御巡幸の際、明治天皇御随行の北白川宮能久親王が天皇の名代として御差遣され、昭和22年(1947)昭和天皇行幸、昭和25年(1950)には貞明皇太后が行啓された。
 このように、旧庄内藩士3千人が、桑と茶を植栽するとともに、それを利用した蚕種の掃き立て飼育と製茶の事業を行った。

 この松ヶ岡開墾創業に際して設置された本陣は、明治5年(1872)に、庄内酒井家第3代酒井忠勝が元和8年(1622)に庄内に入部し、鶴岡・高畑(鶴岡市上畑町)に高畑御殿と呼ばれた鶴ヶ岡城の拡張整備を行った折の仮殿の1棟を藤島・下町(藤島町西川原)に写し、藩主が江戸往復の際「御茶屋」または「藤島本陣」と称した休憩所を再移築したもので、これをもって開墾の本部とした。
 本陣はそれ以来現在まで、松ヶ岡地区の集会所兼事務所として使われている。蚕室はこの創業時から明治10年(1877)までに10棟の建設を終えた。なお本陣の建造物の歴史的由来は、従来の説では、建造物そのものは櫛引町丸岡に京都より移築したもので、これを当初熊本藩主加藤清正の嗣子忠広の居館とし、後にいたって、藤島町に移し、庄内藩主の休憩所とされ、開墾創業時に現在地に移されたということであった。
 しかし、このたびの保存管理計画策定事業における史跡内建造物調査で、調査を委託した生活史研究所の所員の方々の資料収集において判明した、上記の仮殿の移築説が、有力と思われる。
 開墾当初は、旧藩士居住地の鶴岡城下から通勤して、団体経営としての蚕糸事業を開始した。開墾に際しては、編成された各組毎に掘立小屋を建てて休憩所としたが、明治8年(1875)~明治9年(1876)頃に、これを撤去して鶴岡の新徴屋を移築して組小屋とした。この開墾場での養蚕は、蚕種製造が主であったが、資金難のため、明治15年(1882)からは、養蚕は蚕室1棟だけとなり、桑は地方の養蚕家に売却した。
 養蚕がこのような状況にある中で、明治17年(1884)8月の大暴風雨のため、平屋建平屋建て九番と十番の蚕室二棟が倒壊し、再建にはいたらなった。
 また同年に明治16年(1883)に焼失した鶴岡朝暘学校の再建のため、8番蚕室を寄付したが、移築後昭和11年(1936)に焼失した。昭和9年(1934)には製糸松嶺工場が火災にあい、7番蚕室を移築した。
 昭和10年(1935)には鶴岡市新海町に絹織物工場建設のため6番蚕室を移築し現在蚕室は5棟となっている。
これら松ヶ岡開墾場の歴史と現状とを踏まえ、平成元年(1989)8月11日に本陣、蚕室等の建造物を含む、23,950㎡が国の史跡に指定された。
「国指定史跡松ヶ岡開墾場 保存管理計画策定報告書 第2章松ヶ岡開墾場の沿革」(平成6年3月山形県羽黒町教育委員会)より


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 庄内藩は、戊辰戦争に敗れ、賊軍といわれ国辱を受けました。
 当時「賊名」は武士にとって最大の恥ずべきこと、松ヶ岡を開墾し当時先端産業だった蚕糸業を興し、社会の模範となって地域(国)の活性化と発展に貢献して国辱を濯ごうと考えました。
 菅実秀は「国辱を濯がんと欲して荒城を出づ」と詩に詠い、「国辱を濯ぐとは、人々志を立て、道を学び、皇国のために命を擲ち、あっぱれ武士の手本、天下の模範となれば、これこそ辱をそそげりというものなれ」と述べています。
 地域のためにという酒井家菅ら幹部の思いは、その後の庄内米・農業という基幹産業についても現れ、要請により、今まで何度も試み不振におわった米商会所(米穀取引所)を酒田に興し、のち山居倉庫(現在は全農)等などを創設し庄内農業発展の一助となりました。

【松ヶ岡開墾場綱領】

1、松ヶ岡開墾場は徳義を本として産業を興して
  国家に報じ以て天下に模範たらんとす。
1、気節凌霜天地知の箴は我が松ヶ岡の精神なり
  之を服膺して節義廉恥を振起すべし。
1、少長各其の事に任じ神に祈誓する心を以て其
  の職責を盡すべし。
1、己を正しくし長短相済し和衷協同徳に業に従
  うべし。
1、父祖勤労の功を思い勤倹力行創業の目的を貫
  徹すべし。

【山居倉庫綱領】

1、山居倉庫は徳義を本とし事業を経営して天下
  に模範たらんとす。
1、山居倉庫の目的は、庄内米の改良を図り地方
  の福利を厚くして以て国家に報ずるにあり。
1、山居倉庫員は己を正しくし親切公平を旨とす
  べし。
1、米の取扱は常に神に祈誓する心を以てすべし。
1、職責を重んじ、上下力を協せ克く勤めて怠る
  こと勿れ


 










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松ヶ岡開墾記念館の1階は松ヶ岡開墾資料並びに蚕糸関係資料を展示、二階には 田中正佐・正臣コレクションの全国の郷土玩具25,000点が展示しております。
※田中正佐:鶴岡市十三間町生まれ、大正15年旧制鶴岡中学校卒、新潟高校、京都大学卒、大丸百貨店副社長、東急百貨店社長、五島美術館理事長を歴任した。




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 春になれば、蚕室周辺が桜回廊となり、近くには水芭蕉の群生地、桃の花が一斉に咲き誇り、また柿、リンゴ、梨、桃、ブドウなど収穫され、四季おりおり自然豊かな松ヶ岡開墾場です。

 1983(昭和58)年、松ヶ岡開墾記念館を開設以来、松ヶ岡開墾場はじめ農事組合法人松ヶ岡農場、社団法人丕顕会、松岡物産株式会社、財団法人致道博物館によって保存活用されています。
 
 史跡内建造物の保存修復工事が行われております。平成13年4月は本陣修復保存工事が竣工、五番蚕室の修復保存工事が平成14年度15年度の2ヶ年かけ平成15年3月竣工、平成15年度から16年度にかけ1番蚕室が修復工事がおこなわれ平成17年1月竣工しました。その後、2番蚕室をおこない、現在4番蚕室の修復工事を行われて平成25年度竣工予定です。

 公益法人改革が進められており、平成25年11月まで一般社団法人か公益社団法人に移行しなければなりません。平成24年社団法人丕顕会は当初の使命を果たしたので移行せず解散しました。その事業は公益財団法人致道博物館が受け継ぎました。


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