□ 松ヶ岡開墾記念館
 □ 米作り用具収蔵庫


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松ヶ岡開墾記念館〒997-0158
山形県鶴岡市羽黒町松ヶ岡29
☎0235-62-3985


◆ 営業時間:9:00~16:00
◆ 休館日:毎週水曜日
(水曜日が国民の祝日の場合は翌日)
※開館時間、休館日は変更となる場合があります
◆ 入館料(税込)
 一般 300円/団体 250円
 中学生以下無料
 ※団体 20名以上

【交通】
  鶴岡駅より車で20分
  駐車場: 有り




  □ 松ヶ岡本陣
  □ 新徴組屋敷
  □ 周辺施設







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

「庄内米作り用具」収蔵庫  重要無形文化財 創建:平成4年(1992)


 致道博物館は国指定の重要有形民俗文化財8種類5,350点を所蔵しております。そのうち、保存施設である収蔵庫には1990(平成2)年に指定を受けた「庄内の米作り用具」1,800点が収蔵されております。
 庄内平野は稲作には恵まれた自然条件と長年農業振興に力を注いだ藩政によって、古来良質の庄内米の産地として知られていました。
 明治以降も、乾田馬耕など先進技術の積極的な導入や農民自身の手による稲の品種改良など、着々と技術の改良向上をすすめ、高度な稲作技術を培ってきました。
 これらは近年の農業形態の大きな変革によって急速に失われた在来の農耕用具が数多く含まれており、庄内地方の稲作農業の歴史的変遷、進歩や地域的特色を考える上で貴重な資料です。1992(平成4)年、国、県、関係市町村の補助事業として完成しました。






乾田馬耕の導入と農具の改良

 庄内地方に乾田馬耕が導入されたのは、明治20年の初めである。灌水による湿田を乾田化して地力を増強し、多肥栽培を促すとともに馬耕によって作業の省力化と能率の向上を図るというもので、県当局の強い指導と奨励によって技術の導入と普及が進められた。
 山形県下でいちはやくこれを取り入れたのは庄内地方である。大地主、酒田・本間家を中心として地主たちの積極的な乾田馬耕への取り組みもあり、郡単位の普及促進がはかられた。
 当時、稲作農業の先進地といわれた九州福岡地方の優れた農業技術者を庄内に招聘し、その指導によって積極的な技術の習得と改良が行われた。
 その結果、明治40年には庄内地方で約72%の水田に乾田馬耕が普及した。これは県下全体の94%が庄内に集中したことになり、驚異的な普及率であった。それでも当初は潜在地力の発顕が不安定であったため天候に左右されて豊凶の差が大きかったが、多くの技術改良によって克服され、着実にその成果をあげた。
 通し苗代の改善、籾種の塩水選、多肥栽培、苗の密植、正条植、中耕除草など乾田馬耕を契機として行われた農業技術の改良は多岐にわたっている。
 福岡地方から移入された犂は、筑前犂とも呼ばれるもので、無床形で、抱えこむようにして刃をたてて操作する「抱持立式」の犂であった。この地方にはこれまで牛馬による耕起は全く行われていなかったが、乾田は湿田に比して、鍬による耕起が困難なこともあり、深耕が可能な上、作業の省力と能率にも大きな効果があるために急速な普及が図られたのであった。乾田馬耕の成功を記念して馬耕風景や犂などを描いた絵馬が庄内各地の神社に奉納されており、その技術革新が如何に大きかったか伺い知ることができる。
 犂は、無床形から有床の短床形へ、畝立て耕起から平打ちへ、そして2段犂などの考案等も行われ、耕耘機が普及してくる昭和30年代まで広く使用された。砕土のためのカンデンタタキ、切株を切るカブキリ、中耕除草のためのガンヅメなどもこの当時から用いられたものである。

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明治5年の農具図絵に見る用具

 近世期における農業技術についての記録は少なく農具についての詳細は明らかでないが、明治5年に記録された農具調査書に記載されている農具によって当時の様相を知ることができる。  明治5年(1872)明治新政府は、先進農法と農具の導入を図り勧農政策を推進するため、国内の在来農具の調査を郷村を対象として行った。その報告書の一つである田川郡淀川組(現:鶴岡市大泉地域)のものが残っている。これには当時使用された主な農具の図にその使用法などの説明が付されている。  記載されている農具は次のようである。

 鍬(くわ)鋤(すき)鐵塔(くまで)鎌(かま)長柄鎌(ながえかま)マガ(まが) 杁(えぶり)畦斬山刀(くろきりなた)苗背負篭(なえしょいかご) 鉄稲扱(せんばこき)稲苅鎌(いなかりがま)粟堝杵(もみうちきね) 粟トオシ(もみとおし)箱箕(はこみ)磑(どずるす)トウミ(とうみ)箕(み) ヨリナ(ゆすりいた)万石通(まんごくとおし)
 これらの農具の中には、形態も機能にも大きな改良を加えることなく近年まで使用されてきたものも少なくない。   
 苗代作りの作業にしても、鍬や備中鍬による耕起にはじまり、馬鍬、えぶり、なわしろげた、ならしぐわ、ならしいたなど在来の用具による均土が繰り返し行われた。明治20年代から湿田が改良化され、苗代も通し苗代の改善、播種量の適正化など健苗の育成のため種々の改良が行われたが、砕土、均土は入念な手仕事が必要とされ、古くからの作業が折衷苗代の普及まで続けられた。また、脱穀調整用具の中、大正末頃から昭和初年にかけてセンバが足踏み式の回転脱穀機に変わり、土摺臼が手動式の籾すり機に移行するなど、機械化による大きな進歩が見られ、三段通しなどの新式の選別用具も制作されたが、籾通シ、籾ヨシ杵、万石通シ、唐箕などその機能が遅くまで7いかされてきたものもあった。。



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